先月の新月から昨日の新月まであっという間
過去からの再確認が起こる時期で、バッチリ私が実家の家族との関係性で問題として過去抱えていたことが再度起こりましたが、自分でもあら、と思う程揺るぎもせず、咄嗟にでた感情と一呼吸した感情が全然違うもので、あの頃はその咄嗟に出てくる反射のような感情に飲み込まれてしまっていたんだなと感じました
何度も何度も繰り返し
わかったと思える事も、またそれをパカンと割れば、見えてない事が見えてくる。波動をあげる、細やかに感じられるようになるって
その事の粒を細かく細かくして行く事だと思います
以前は気付きの度に、感情に飲み込まれてしまって食欲も落ちるし、瞼の上あたりが重く重くなってきて、からだも重い
それを繰り返して、いわば慣れで数をこなしたような感じもあるけれど、その時は「謙虚さ」というものが解からないし、理解ができてなかったなと
謙虚さとは
控えめで、慎ましい事。素直に相手の意見などを受け入れる事
そして
受け入れるとは
拒むことなく許し、迎え入れること
拒むことなく許し、迎え入れること!
受け入れられないんですよね。認められない。「自分が」そんな状況だとか、そんな判断してたとか、そんな思考してたとか
相手が悪いことは理解できても、自分が嫌われてたり自分が批判されてたり、自分が愛されてない事を認められないとか
認めたら自分自身の価値や存在がぐらつきそうで
自分の価値や存在が周りからの言葉や繋がりにあってしまって、自分の中に軸がないからぐらつくんだけれど
そんな自分勝手なものさしを見つけるたびに、謙虚に成らざるを得ないし、そんな難しい言葉でなくても、もう恥ずかしいし情けないし、言葉を全て回収したくなる
そうやって少しずつフラットに物事を見られるようになってくる
そうなったら、こちら側の問題点や内観ができてくるようになる
もう何回もこれをブログに書いているような気もしますが、本当に繰り返しです
数学でいう基礎の最初の小問は解けても、ちょっとひねった大問になってくるとその基本になる公式があてはまなれなくて、見えてこなくて解けない
先日、教える立場教えられる立場で私は人とは繋がる事を得意としない、そんな話がありましたが、それは外に見えている世界であって
その矢印を自分に向けると、外の世界をそうやってフラットに見られてないのは私の意識
改めてその意識を見直ししたのですが
その事とね、色々な事がごっちゃになってました
「愛の眼で見る意識」という意識があります
言葉や感情を超えて、相手のその奥にある本質に目を向けて相手をみること
その人の環境や、これまでや色んなことを踏まえ、そこで抱えてきてしまったものを、その人そのものと切り離して見られるかどうか
そこから、なんだかずっとそこに、全てに寄り添うべきではという想いがありました
で
ほっといたれよ、と(笑)
昨日改めてふと思いました
何を選択するかは自由
そして私が何を選択しようと自由なのだ
もっとぐいぐい勢いのある世界に触れていたい
そこにいてできることがきっと見えてくるし
自分の意識をあげる事で、本当に今まで毎日のように「なんで?」がまとわりついていた事に、耳にする事、目にする事が結び付いて答えに気付くようになってくるから
みんなに選択の自由があるし
もちろん私にもあるんだよ
新しい事をね、どんどんやっていこうと思います
慣れた事って、固定観念ガッチガチすぎて自分を疑うことが難しい
新しい事は制限が見えるたびに自分の意識かもってすこし隙をみられるから
渋柿の渋抜きをしながらそんな事を整理した新月でした
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