決めきる

5月のサトル米の田んぼです

今年はこの除草機で田植えの一週間後あたりから除草をすることになりました

写真に写っている場所と右隣のあわせて2枚の田んぼです


この柄の先についた板で苗の間の土を丁寧に何回も攪拌しながら歩いていきます

とても広い体育館をひとりデッキブラシで掃除する感じです

去年は除草のタイミングを甘くみていたのと、ぎっくり腰になったこともあり、この除草機で思ったように作業をすることができていませんでした


今年はとスタートは狙ったタイミングでも、現実の作業量は思い描いていたタイミングよりもはるかに時間がかかり

はるかにはるかに時間がかかり

あっという間に予定の日を越していきました


毎日田に向かいながら、大きな面積をやりくりする農家さんに挟まって、どう思われているのか全く気にならない事もなく、何をしているのかとも尋ねられ


でもそれでもただもくもくともくもくと、風に吹かれながらもくもくと作業をする

なんだか除草をしているようで、田んぼを磨いているような感覚でもあったけれど


ただもう、やるしかなかった


この田んぼは私の名義ではなく借りている田んぼです。田植えや稲刈りの機械を委託して共有していることもあるし、左隣は違う方の水田です。自分のやりたいようにやって、草種を増やして迷惑をかけることもできません。借りた田んぼで周りに迷惑をかけることはできません

それでもここでは、私は自分の思うようにできないのであればやる意味がないと、そう再確認ができたタイミング


私の思うようにとは、ダウジングのお伺いの答えのとおりにということ

宇宙との共同創造

どちらに対しても、どこに対しても360度、私が責任を背負う覚悟がいりました


お伺いに対しても、いつまでも甘い覚悟でやらせてもらえることでもありません

そこが、このサトル米をつくる田んぼが私の土地でないことの理由にひとつだともこの時思いました

宇宙との共同創造と明記して、私のエゴの思うがままお伺いをすることも甘い状態で、いつまでもさせてもらえる事もないのです


田んぼを自分の足ですべてまわってみて、これはこの土地との契りのようなものかもしれないなと、なんとなく思いはじめました

5年目にしていまさらです

足の裏で田のことを知っていきました

硬さや高さ、場所によって違う土の感覚

田んぼのすべてを足で感じていきました

自然のものを請け負うこと、土地を預かるということは、そうだな、このくらいの覚悟は必要だなと


日によってはただ作業に必死にもなりました

一度除草機をかけたところから草がまた見えはじめ、焦りを超えて除草機の使い方に問題があるのかどうか相談をさせて頂いた時、答えは除草機の使い方ではありませんでした

「肩の力を抜いて、たまには空を見上げましょう。

 水が澄むと自分のクセがわかりますので検証を行い、次に活かしてください。」

その時私の頭にあったのは、草がとれたかとれなかったか

はえてきたか、はえてこなかったか

結果にしか意識がなかった

自分がやってきたこと、やっている事への観察が起きてこない

これは今までも何度も教えられてきたことでした

結果ではなくプロセスが大事

うまく除草ができているところと、そうでないところに「なんで?」がない

できたか、できなかったか

そんなものだけをいつもみてること


そんな学びをたくさんたくさん抱えながら、順風とは言えないけれど、なんとか力ずくも込みで中干しの落水まで進めることができました


私はね、飽きっぽいです。いろんな事に興味を持つけれど、すぐに飽きる性格もあって。親元で暮らしていた頃は、親にとめられる事でそのせいにもしたりして、やりたいと思いながらもある程度止まり。やりきる感覚を持てたことがなかった

ありがたいことに色んな事をあるレベルまでは器用にやりのけられたので、必死でもがいて勉強をやってきたわけでもなかったし、親に反対されればあきらめるしかなかったし


検索をすれば答えがでるような事は物事の一部であって、そこから実際に体験して、できなさそうなデカいことは雇われ仕事についたあたりから、やらなくてもしっかり「いわれたこと」をこなしていれば触れることもなくなっていて


やりきるという感覚を知らないで大きくなってました


「決めきれてない」そう言われて、今までその意味を理解することができずにいました

やるって思ったからはじめてるんだけど

やってるんだけど

全然わからなかった

「やると決めたらそうなるしかない」

ブルブルに震えながら、やるしかない

そう目をつぶってやってきたこともこれまでたくさんありました


そう

私が「決めきる」に至る

私のための

プロセス


この田んぼを手放すわけにはいかなかったんです

共同創造の創造主になることをあきらめられなかったんです


やるしかなかった

どんなことをしても、やりきらないと


この腹をくくる感覚が決めきるということだと

広い田んぼの真ん中で

広い空の下で理解したとき

すべてが

私の成長のためにあったことに気が付いて

毎日魂の成長のための学びや気づきをといいながら

手に取るように生活の中に編み込まれたプロセスに気付かされました


農園をやってみようと決めたこと

その頃はまだガチガチのエゴエゴで、毎日教えを得られる環境でもありました

そこから自分でやってみる環境に

依存させず、自分の選択を生きていくスタート

取り残される怖さがなければ進めなかったかもしれない

ただ楽しいでワクワクでいれたなら、飛び込む勇気も持てなかった

私にはあの何も食べれなくなるような怖さもなければノンキなもんだったと思う

達成感や、しょうもない優越感も上手に使っていただいた

上手につかって、ある段階で手放すことになっていく


きれいなお米がたくさんとれることではないこと


全てが成長のためにおこっている世界を感じる

サトルエネルギーとともに学ぶとはそういう感覚です


その人それぞれのプロセス


私の体もね、なんで治らないのかなあってずっと大きな悩みでもあったけれど

もし農園をはじめて、力ずくで作業をこなして、野菜やお米がある程度にキレイにうまくできていたら、私は「できたこと」しか見ることができなくて、できたつもりになって

わかったつもりになって、何も教えを聞けなかったんじゃないかなあとも思うのです


自立も受け入れも、すべてが織り込まれてる


厳しさを自分を大切にしていないとも言われます

もっと楽しく、楽に、みんなで寄って歌って笑って農に携わることも可能です

でも、私は決めきれたことで、今まで持っていた田んぼを預かる、お米を作る、農薬を使わないで作る

その「怖さ」をなくす事ができました

ここからでよかったんです

怖さをベースに何を積み上げても消えないから

意識が作り上げる世界です

怖さがあった時もありました

私の成長のプロセスです

その怖さがどんなものを創りあげるのかも体験してきています

だからそれを知った時、信じる力に逆にフォーカスすることもできました


ずっとずっとこのプロセスの意味を理解することができませんでした

今何のためにしているのか

今を理解していくこと

だから、この体験があまりに大きすぎて、このところ書ききれずにいました


すばらしい世界です

この織り込まれたエネルギーを感じられると

いつも感謝がこみあげます

全てが自分の成長のためにある

自分の知識やテクニックは道具であって、自分の感覚でその織りを感じてみること

自分がどれほど知ったかぶりの傲慢か


ただ共鳴して、棚ぼたのようなエネルギーが得たいのか

真に自分が成長したいのか


知りたいと願っているようで、見たくないものを見ないようにする能力は私も天才的です

そこを超えたいかどうかだと思います

サトルうさこ農園

愛そのもののエネルギーであるサトルエネルギーで高波動に整えたサトルうさこ農園で、宇宙と共同創造しています

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