自分を生きることが、優しいことではないと感じていれば、自分を生きることをしないですよね?
そう。
だから、
どうにもならないこと。
仕方のないこと。
どうしようもないこと。
そうやって蓋をして、自分ではない誰かに良いよいようにと、自分の判断を感じることもなく、毎日を生きていく。
ま、ね、仕方ないの。
これはね、ま、いいんだ。
苦しいけれど、どうにもならない。
そうやって、また蓋をしてしまう。
それがあたかも、奥ゆかしく、気の利いた、配慮のある判断であるかのように。
全く手も足もでない人生の未解決事項のように。
そして、違うことで自分の正統性や、優越感を探しだす。
そこを、グリグリとこじ開けようとすると、ぴしゃりと扉を閉められて、必要がないと、糸をプツンと切られてしまう。
それでも、それでも、こうして、誰かの胸に届くようにと、言葉にあらんかぎりの愛をのせて届けと、願うのは、
生きる歓びを感じてほしいから。
どうしようもないと思っていることに、自分に向き合って、どうしようもなくこびりついてしまった、下手くそな癖に気づいて、わざとうまくいかないようにしている、自分がやってる、その巧妙なやり方に気づいて、その常に力のはいった肩や、浅くなる呼吸や、欲しくもないのに食べている感覚を、少しでも、少しでも、緩めて、
ゆるす、という感覚で、思いっきり泣いてほしいから。
ほんとうの愛を感じてほしいから。
歓びを感じて、自分を生きてほしいから。
今、生きていることを、そんなに簡単に流して生きてしまっては、本当に本当に、なんのために生きているのか、わからなくなってしまうと思うのです。
優しいことではないけれど、それは、その最初の一歩のその場所に、怖さ、怖れ、不安があるから。
怖い、寂しい、辛い、不安でたまらない。
そう、そこから。
少しずつ、一粒ずつでも、その自分の体にひっついている、『怖さ』や『寂しさ』や『辛さ』や『怒り』をグッと離してよーく見て、なんで怖いのか、それでどんなことがおこるのか、自分が何を見ているのか、それを見て、どんな言葉を話すのか。
本当は何を感じているのか。
『ごめんなさい』と。
ただその言葉を何度も唱えているだけで、涙がとまらなくなることもあります。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
頭では忘れているような怒りや、毎日のように繰り返された日常で、体が覚えたこわばりが、ゆるんでいく。
その糸が少し緩む感覚を、味わってみて欲しいのです。
そして、そこにある、壮大な愛の真理を垣間見て欲しいのです。
殴られたような衝撃で、自分がこんな風にして生きていたのかと、思い知らされることもあります。
それはそれは、衝撃です。
でも、知ればもう、それで終わっていくのです。
そうやって、軽く軽くなっていくのです。
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