ざわざわしないことの方が、『わかっている人』で、感情が波だたないほうが、『理解できてる人』で。
はっきり言える人の方が、『考えに芯がある』人で。
そう思ってしまうと、何も言えなくなってしまって、ざわざわを出さない事で、わかってる風を装っているような、さらに自分自身にも蓋をしてしまうような、塞いだ感じになってしまいます。
言わなければ、間違ってることがバレないし、わかってないことがバレない。
このような意識の話をすると、余計にそういう場面に出くわします。
オエッとする所へ届きそうになった瞬間に、話をまとめて、風呂敷にでもくるっとくるんで、心の奥に、あとでね、と言わんばかりにほりなげてしまう。
ま、いいねんけどね。
ま、仕方ないねんけど。
そうだよね~。も、そう。
むぅ。
会話はチャンスです🎵
一人で『あ~どうしてこうなんだろうなぁ』と考えていても、堂々巡り。
そのことに対して、誰かが、なるほどと思うことや、ムッとなることを、それはそれは思ってもみない所から突いてきます。
わかってないわ。
ちょっとそんな簡単にいうけどね。
いや、ちゃうわ。
そう思って、くるっとしまいこむ。
そして、また毎日
『あ~どうしてこうなんだろうなぁ』のつづき。
その考えでは出られないとわかっているのに。
自分の固定観念をあたかも他人が見るように感じることや、まわりの人の固定観念を真理と見分けることは、まずそのカチカチのこわばりをほぐしてみてはどうかと思います。
素直に。謙虚さを。
ゆるゆるで、とにかくまわりの人の固定観念に次々と泳ぎ回ってしまうタイプなら、自分がどう思ってるのかすらわからないことの方が先の問題だと思います。
言葉として出すことは、とても怖いことも多くあります。
でもね、その問題に対しての考え方を話しているわけで、あなた自身の性格や行動すべてや、やってきたこと全部を否定している訳ではないのです。
色々考えてみる訳です。
抜け道を、ひっかかってしまっている考え方を見ようとしているのです。
話している相手にもお互いに必要なことだから。
自分のまるごとを責められていると感じて、出すことをやめてしまっては、もったいないなぁと思います。
言うことで孤独を感じることもあります。
それでも、そこでグルグルしているよりも、きっと、あっ、という扉があるはずなんです。
どんな顔をされても、どんなにあからさまにシャッターを閉められても、そのかたくなな所からたどり着くと思うので、嫌われてもグリグリと言うことの方が、そっかーと話を聞いている場合ではないとそう思うのです。
相手は、この考え方に対しての反応なので、私自身を嫌っている訳ではないと思えるのです。
もう、嫌われるとか好まれるとかの意味もよくわからなくなってきました。
言える相手。
私は、みっともないところたーくさん見せて、あなたのソコを私はうらやましーとか思ってるのよ、と言える友達がいます。
とにかくソコへいくまでは、とてつもなく話をしたと思います。
無理矢理にでも言葉を出して、その言葉を見ることもひたすらに。
みんなが、そんなシンプルな繋がりになれるのになぁと思います。
そして、私も毎日そうやって会話から、私のオエッや、あらたな発見をさせてもらっている訳です🎵
ありがとう。感謝。
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