ハワイ2日目の早朝に一人で訪れたwizard stone。そこで受け取ったメッセージは「到着そして出発」でした。
その場にはあまりに単純なメッセージ(トロリーの発着場)であまり気にせずにいました。朝イチから割と頑張ってきた割には、あまりに期待外れのような気までするくらい。
(*エフカイピルボックスへ向かう途中)
ハワイでの予定は日程が短いこともあって、ほぼ完璧に組んでいたので、何をどうするかの時間はほとんどなく、とてもとても有意義に過ごすことができました。
(*ハレイワでの定番レモネードとガーリックシュリンプ)
日本に帰ってから、なにげなく見ていたテレビ。結婚前の女の子が卵巣摘出手術を受けるというお話。
あら。
結婚の話もまだでてもなかった頃、急な腹痛で運びこまれて緊急手術を受けてから始まった、私の内膜症の病気。理解するよりもやるしか選択肢のなかったいくつものホルモン治療、その女の子の様に結婚の問題、妊娠の問題、出産の問題、その後の子育てと並行する再発と再手術。
その番組を見ながら、お腹を抱えて「痛い」と言ったところから、なんだかおさらいのような感覚。
そう、そうそう。
その彼女とは環境も何もかも違ったし、1時間のドラマではまだまだ彼女はこれからがはじまりのようにみえるほどの時間だったけれど、とにかくそこから始まって「もう終わり」だった。私にとって。これ、もういいよね。声がきこえたのか、感覚なのかよくわからないし、今思えば次の次の日にはいつものように痛みがあったのだけれど、とにかくそんなこととは何だか別のところで「終わってるよね、もう」っていう想い。
あんなに辛い時期はなかったとずっと思っていたような気がするけれど、誰にもいえないし、誰もわかってくれないと新居のテーブルに置いた体温計の景色が忘れられないでいたけれど、そのドラマの小児病棟の子供たちの顔からわが子の幼い顔が思われて、もう「終わってるよ」ってね。確認が来た訳です。
「あ、終わったな」
自分で終わらせられることは頭では知ってたつもりではいたけれど、やっぱり何かしらのタイミングとメッセージがあってなのかな。いくら意図しても、忘れたいのは忘れられないの反対。でも、思ってもいないタイミングでやってきたその「終わっていたこと」の気付き。
そう思えた瞬間。
今おこってることだけ見ればいい。終わったことまで感じ続けてたのか、私。
もう、ここにはないのに。
(*マカプウ岬)
そして追い打ちの様な予告。「病気と闘う幼い子供」
そう。「これは?」っていうのが、はっきりわかって。息子のこと。その予告にもちゃんとでてきた、それぞれの家族の病気との関わり。「終わったのかなあ」即答はできなかったけれど、今それぞれの子供たちが生きているだけで私を生かしてくれているエネルギーであること。命を通して私に「信じる」よりも強い「認めるしかない」世界を教えてくれたこと、何より無条件の愛を教えてくれたこと。
もう、「終わってるんだな」「今」のことは「今」の問題で。これは、もう「終わってるんだな」って、そう思いました。
こういう医療系のドラマを見ていると、息子はあの病室でのアラームの音に身体が反応してしまうようで、とても嫌な感覚があるみたいです。私にはない感覚が息子にはまだまだあって、私はそこを「終わっていること」にしてはいけない罪悪感のようなものを感じていたのかもしれません。でも、握っている限りなくならないモノ。私が放せるものは、放さないといけない。
もう「今」にはないもの。
ありがとうね、お兄ちゃん。ありがとうね。私をここへ連れてきてくれて。
(*ハナウマ湾でのシュノーケル 真ん中の黄色い二人が我がツインズ笑)
そうやってメッセージのようなあるポイントへの「到着」とそこからの「出発」という感覚が得られる出来事が起こっていきました。
次回「サトル米」収穫のタイミングで感じたこと。に続きます。
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