10月の神月あたりから、自分の可能性を少し見られるようになってきていました
それまでは起こってくることに自分がどう反応しているのかという内観ばかりに意識が向いていて、内観内観と潜りながらも、何とも繋がっていないような、行く先のない意識
何を求めてどこへ向かっているのか どこへ導いているのか
その言葉に触れた時、自分が導くという意識を持てていない事に気が付いた
作業に没頭して起きることに対する意識を見る。同じフィールドでその繰り返し
そしてその時に「導くことができる」可能性に意識がいきました
その自分の可能性のすべてを自分が信じられてなかったんだなって
そのタイミングで目にした、一人が一人に伝えられることを侮るな
その言葉に私は私の言葉や所作や声など日常のすべてで「侮るな」という意識を持ちました
共鳴ということにも意識を置きました
所作や意識を向ける先を考えた時に、少しの朝のルーティンを組みました
「声」と「所作」というところから、毎朝神棚のお水を替え、手を合わせ、そこから般若心経を唱えるようになりました
何気ない所作に意識を置くよりも、あたかも特別に思える行いのほうが意識を向けやすかったからです
毎瞬間の意識を起こすという事は、修業だなとその時に感じました
SNSも全て整理をしました
怖いくらいに整理をつけたそのあたりにとても大きなご縁を頂いて、私は拡大や変化を見いだせていなかった農園のこの先を少し考えられるようになりました
自分の好きなこと
自分のできること
相手が求めているもの、その重なりを見ること
大きな目標と予算組みは、おおまかに浮かべるだけで緊張が走りましたが
丁度それが12月の新月15日
自分で創りあげた世界のご縁でやっていきたいと、想いを天にとどけました
そしてそこまで全てを整えて、自分で整理できる限り整理をし、行く先を決め、12月20日に、ご縁のあった福岡の護摩供に行かせていただきました
護摩とは、「梵焼」つまり焼くという意味です。
何を焼くのかというと、一切の汚れ、不浄、悪事、災難を焼き尽くして清浄な美しく正しい状態にするという事です (求菩提山 奥之院 ホームページより)
行けばどうにかして頂けるという意識では行きたくなくて、気付けたものは整理ができた状態で行きたいと思っていて
日程を決めてからそこに向けて動いてはいましたが
炎にあたると変化がおこりますからね、一度お越しになられるといいですよと以前より声をかけていただいてから、とても満足のいくタイミングでした
(写真:求菩提山 奥之院 ホームページより)
護摩祈祷は身体が忘れられないエネルギーでした
帰りのタクシーを待つ間に山田 龍真先生がお声をかけてくださいました
侮るなという意識を想い、私は護摩祈祷の間の先生の手の印の強さに見とれていましたが
先生は、私の目を見てその手を差し出し、手を握ってくださいました
「行者魂」という先生の3年がかりの千日行を含めた13年間に挑んだ荒行を綴られた本が手元にありますので、またご紹介していこうと思います
私は「まえがき」を読んだだけでもこみ上げるものがありました
護摩の炎にあたり、大きなGCも越え、また新たな毎日のサトルうさこ農園です
「行で悟りは得られるのか?」と多くの人が問う
しかし、行では悟りは得られない
悟りとは最初の発心であり悟りを継続し、続けていくことにこそ
修業の本質がある (行者魂 より)
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