自身の病気も入院も救急車も、経験のないことでもなかったし、産まれた我が子の顔を飽きることなく眺めて、その命の不思議を感じていたし、その小さな命で病気と向き合う現場にも関わらせて頂いて、生きているということ、死んでしまうということを、少しは考える体験をしてきたと思ってました。
この瞬間生きているということを見てきたつもりでしたが、やっぱり自分や身内の死には、変な根拠のない死なない自信があって、子どもたちの死への恐怖には寄り添いきれてなくて、目が覚めて、生きていることに胸が震える感覚は知識でしかなかったし、生きることへの執着も、死ぬことの恐さも、胸で感じることができないままでした。
社会の人間として、社会の仕組みを生きているということ。
こんなことがあれば、この世の中で受け入れられずに、仕組みから外れてしまって、生きていけなくなるのではないか、という意識と、
人として、命そのものを失ってしまうという意識と、
そんなことの違いが、根底でわからなくなってはいないですか。
そんなお話を聞いたんです。
頭の中では、とても理解ができていたことのようで、何か、ピッと、何かがモヤッとして、次のとっかかりのようなものがありました。
仕組みの中での命を守っていることに気付くため、人の評価や、刷り込まれた意識や、自分ではわからないまでに自分の一部で当たり前としか認識できなくなっていた考えを、自分の内に見てきたつもりでした。
本当の自分は何がやりたくて、どんな風なことができるのか。
そこでどんなに辛くても死なないということ、それも何度も伝えられていました。
それでも、それでも、それでも、今の瞬間を見つめるという意識の後ろに、パソコンや携帯のバックグラウンドのように、常に意識の中を流れる不安や、恐れや、心配や、段取りや、予定や、上手くやり抜こうとするずるさや、遅れないように、間違えないようにとする、うるさいまでの考えが流れていたように思います。
「何も握らないように」
悪いと思われることも、
良いと思われることも。
うるさい頭の考えが、浮かばなくなったのだとはいえないまでも、
そう思いながら、いつものように手のひらを広げて見た時に、今までとは違った、人として、生きている意識がつかめそうな気がしたんです。
うわぁ、となったのでもなくて、そのとっかかりのような気配を何日も何日も、他の想いに曇らせないようにして、大事なバリケードを張るようにして、少しずつ感じていました。
植物は、起こったことそのまんま、ゆえに間違えることがない。
すべてが、すべての結果。
とってもシンプルな生きているということ。
どんな言葉を聞いても、知識でしかなかった、生きているという感覚。
だんだんと、風が、頬にあたる風が、気持ちよくて、この空気が吸い込んで胸に入る感覚が気持ちよくて、何度も何度も深い呼吸をして、ただ、ただ、深い呼吸を繰り返して、だんだんと肌の感覚が戻ってくるような感覚をずっとずっと感じているようになりました。
生きるという、そのものの生命エネルギーがパンパンに詰まったお野菜を育てているつもりでした。
でも、そのエネルギーを感じることができてなかった。
でもね、私、わからないから、初めたんやったんです。
仕事も追い付いてなくて、上手くやりきれなくて、でもね、私、できそうやから初めたんじゃなかったんです。
できそうにもないこと、やろうって決めて、はじめたんやったんです。
農園に来てくれる子ども達がね、すごいよこのお野菜って、ずっとずっと見せてくれてたんです。
子ども達にはね、このエネルギーがわかるんです。
シンプルな生きているという感覚。
いのち。
それを感じることができれば、その命を満たしてくれているすべてのものも感じることができてきます。
心を満たしているものではなく、命を満たしてくれているもの。
それを感じることができてきます。
自身の神秘を感じます。
そう、やっとここから。
農園のお野菜を食べてみてください。
今この瞬間、生きているというエネルギー。
それを、いただく。
わからないなら、その意識に身を置いてみるということ、その感覚を、自分を信じきるということ。
この胸が震えるほどの、満たされている、今ただ生きているということ。
この意識。
農園のお野菜を通して、みなさんにお届けしていきます。
いただきます、美味しいね。
素晴らしい世界です。
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