利他

2022年がはじまってから、どのような意識で暮らしていたのかは続いて書く事にして、現在進行形で久しぶりの「書く」ということをしてみようと思います


これまで自身の出来事や気付きを書くことで、私自身の整理や気付きが深まったり(ほとんどがこれ)読んだ方への気付きのきっかけがあればと思っていました


いや、最初は書くことが課題であって「自分から出す」ことのトレーニングでした


だから単に書けてないことへの「取り組めてない怖さ」があって。出来てない事への落ちこぼれたくないというか、取り残されたくないというか、土台がなかったから、居場所の確保というか、私には細い命綱のひとつだったのかもしれません


慣れない作業でヘトヘトだし、洗い物だってあるし、作業計画だって、作業日誌も、出納帳簿も、ブログを書くよりもタイミングを逃せない作業に時間を使わないとと重く感じる思いも確かにあったし、とにかくとにかく書くのに時間がかかってしまうのだけれど、力業で押し切る毎日のその力がもう上手く使えなくなっていて、凝り固まった思考と、持てなくなるほどに溜まったこれまでと、縮みあがった怖さに書くことで自分で入って行ってからまりを解く事が、楽ではないけれど「変化」を感じる数少ない通路だったので、何よりも優先させていた事でもありました

仕事や家庭含め、もちろん体験がなければ書くこともできないので、何かがあって、書いてってことなんですけどね


そうやってここで色んな気付きをさせていただいて、今年のはじめあたりに文字が行き交ってうるさかった思考に、少し静かな余白を感じられるようになりました

その辺りから、リアルな脱出劇のような体験が減り、書くことに「頭を使っているような」少し違ったところから出てきたものを書いているなという感じがありました


養老孟子:「うるせえ、黙ってやれ」は、自由を阻害すると思ってるんだ。強制するとかね
玄侑宗久:むしろ自由を尊重してるわけですよね。私らも禅問答の公案をいただきますけど、先輩が後輩にこっそり教えるなんてことはあり得ません。それこそ自由を侵害することになりますから。この、決して教えたりしない、ということが禅門では「しんせつ」と呼ばれるんですが「深く切る」って書くんです
                           「脳と魂」より


急に自分の書いている意識が、物凄く物凄く傲慢で「良かれと思ってしていること」が「良」なのかどうなのか、「ここに書く気付き」が外に対する「こうすればいいのに」という勝手な意識になっているのではないかと思えてきて

その想いと、新年から取り組んできていた「自分のズレや自由の幅や曖昧さを整理する」という生活が重なって

書く前の体験に半年費やしたことになりました


誰かのために何かしなければならないという意識や余裕は恥ずかしながらなくて、自分自身が自分のために必死に命綱のように何度も引っ張って力を任せてきたように書いてきたことが、今の農園のお客様との繋がりになっていたり、最近になって出店のお声をかけていただけるようになったり、仕事上の関係を強くしてくれていたりするこtおがあります

「ブログ読ませてもらっています」そう声をかけて頂いたことは要所要所であって、家族であっても友人であってもそんな話をするのにはそれ相当の前置きの時間というのが必要なくらいの内容は書いてきていたので、いろんなお話ができるようにはなりました




まずは人が手を加える以前の料理をたくさん経験するべきですね。それが一汁一菜です。ご飯と味噌汁と漬物が基本です。そこにある美味しさは、人間業ではないのです。人の力でおいしくすることのできない世界です
                            土井善晴


農園をしていると、最初は基本の手入れもろくにできずに上手く作物ができず、不甲斐ない思いをたくさんたくさんたくさんしますが、作業ができてきても、それは促しや補助であって肝心のところは太陽や水や土の仕事であって、そこは手を抜いてまずくしてしまうことはできますが(笑)、私にはその要の仕事を人がすることはできないなと思い知ることばかりです

土の中に住む微生物のうち、実験室で培養できる細菌は全体の1%程度と推定されていて、残りの99%は種類や性質がほとんどわかっておらず、植物の上に住む微生物にいたってはその割合すらわかっていないそう

天気などに振り回されて、倒れるほどに作業を必要ともするのに、そのことが生育の真に触れることすらできないということが、そしてその営みが台地の上で淡々と四季をめぐること、そして重労働かつ限りなく補助的なとも思えるそのめぐりから生まれる美しさを、私は写真におさめたくなるのだろうかな、なんて思います

確かに作り手によって味も見た目ももちろんもちろん大きく変わります

そこよりももっともっともっと真の部分というところのおはなし

みなさんには特別な難しいレシピを頑張らなくても、素材そのもの、太陽の元気さや、土の中の未知な世界が作り出す美味しさをぜひ味わっていただきたいと思います



「起きてくること」という言葉が私は使いなれていますが、これまでどうにもならないと思っていたことの少しは、どうにかできると思っていた事のほうが間違っていた世界でした

その視点を変えるのは自分の根本が揺らぎそうで怖いですけれどね

どうにかしてやろうという世界からいったん外に出た広い視野の世界のように思えます

とても理解が難しいけれど、それは諦めて何もしないのではなくて、一旦どうにもしない責任を持って下がるというのかな



少し、やらなければ、書かなければというところから扉を出て、自身と目の前の世界に距離ができたような

すこしは自身を「筒」として、何かと何かをそのまま通せるような感覚が生まれてきたのではないかなと書きながらそんなワードが出てきました


とことんカラーを出して、転がる石を押しのけて道を創るもお役

無色の魅力と見識を持って、自分のカラーを出さずに相手に添って全体を促すのもお役


自分の与えられているもの

置かれているところ

得意とすること

やりたいこと

起きてくること


知らない事、できない事がある世界だというあたりまえの認識がよくすっぽ抜けてしまいます



怖さを、小さな一つ一つを確認することで取り除き、手招きされて素潜りした海の美しさを体感した時の感覚に似ています





サトルうさこ農園

愛そのもののエネルギーであるサトルエネルギーで高波動に整えたサトルうさこ農園で、宇宙と共同創造しています

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