自分が子供に向けている無条件の愛を、自分に向けてみる
私には「自分を愛する」という言葉よりも逃げ場がないくらいに腑に落ちる感覚で
これをしたら、おこる?
こんなこと言ったら、おこる?嫌いになる?
これ出来てないと、出来ないと、がっかりする?嫌いになる?
ならない、ならない、ならないよ
そうやって行動するには心がモヤッとるすことを、自分にひとつひとつ聞いてみる
ならない、ならない、ならないよ
小さな子供にとって、思い込みでも「愛されてない」と思うことは死と同じくらいのことなんだと言われて、その事の大きさ、傷の大きさを甘くみてはいけないと改めて思う
ならないよ
そう自分に言われて、いちにち、日ごとに、ゆっくりと、細胞の一つ一つがゆっくりと、ほんの一粒一粒ずつが、ぽつりぽつりと緩んで、想いが走ると胸のあたりにあがってしまう、氣のエネルギーの塊が、ひとつひとつ、じゃあねって本来の場所に戻っていくような感覚を
いちにち、いちにち大切に味わっていました
細胞に刷り込まれた、こわばりや、悲しさは、放っておいていつか癒えるものではないほどに刷り込まれているようで
条件反射のように、その反応を繰り返す
誰に許されたら、満足?
誰になんて言ってもらえたら、気が済むの?
そうやって、誰の価値観で生きていくの
それをいつまでやるの
そうやって、他人に置いていた軸をひとつひとつ取り戻したら、最後にゆるさないのは自分
やれてないことも、できないことも、誰からなんて言われても、そんなのは人の基準や評価だとわかっていても、できていないことが許せない自分
色々、モロモロ、なかったことになんてできない自分
何から自分を守っているのか
何のために守っているのか
軸を戻したのに、まだまだ外に向いている
ならない、ならない、ならないよ
そういって本当に身体の芯から感じられたとき、許さないのは自分だとやっとわかる
そして、その基準で「他人もゆるさない」のがわかってくる
ゆるされている感覚が芯まで沁みないと、どこかに「基準」がやっぱりあって
その価値観で人を見ていることが、よくわかった
「私の基準」なんて、ばかばかしい
こんなに怯えて、他人の基準で生きてきた自分が創りあげた
ほんとしょうもない世界
「良い」も「悪い」もそんな判断ができるはずがない
誰にも
農園を初めて3年目
草まみれだったり、手入れが遅れたり、売るタイミング逃したり、収入が思ったようにいかなかったり、いつもいつも、そこを誰かに責められないように、言い訳をして、できてないことが気になって、怖くて、フォーカスしまくっていて
誰も何にも言わなくても「言われる」ことを想定して苦しくなって、揚句言われてがむしゃらに働いて、どうにも廻らなくて苦しくて病気のせいにして病気を握りしめてました
細胞がね、ポツリポツリと緩んでいって、それは何も仕事をやらなくなった訳でも、減らしたわけでもなくて、きちんとできるようになった訳でもなくて
ただただ、それでも嫌いにならないよ
そう「自分」がいっただけで
それでもゆるされるっていう「愛の意識」を、細胞たちが感じていったのです
責める方にフォーカスしてたんだな、ずっと
何回も何回も同じ輪っかをぐるぐるしてても、どうしても守る「癖」に気が付けなくて
その「柵」が壊せなかった
怖くて
守るべき敵がいつもいた
ゆるすことよりも、ゆるされる事を感じきった時
やっとゆるすという事がわかってきて
今までよりもさらに「愛の目で人を見る」ことが尊くて
その人の感情や思考は「その人そのものではない」ということ
ゆるされるって
しなければならないも、でなければいけないも、なんにもなくて
怖さも不安もなくて
そうやってひとつひとつ払いのけられたところに「愛」はちゃんとあった
あなたの中にも、あなたの細胞のなかにもちゃんとあるよ
本当は「愛」しかない
それを覆っているものを、それを握っている手を放していこう
見えた愛の波動が、全てを震わせていくから
そうしてあなたの世界が変わるから
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