前回のブログを書いてから、ぽんやりとしたような、それでいて自分に集中できるような
いつもの様にやることをやっているのに、やることがないような
「慣れない感覚」の日々を過ごしていました
考えないということの意味がわからなかった頃の自分を思うと、本当に毎日毎日、毎瞬間、「あのこと」や「あの意味」について考えたり、「どっちにするべきなのか」「どっちのほうがいいのか」「どうしてなのか」「行きたくない」「やりたくない」「うれしい」「うまくいった」「きっとこうだから正しい」「あれはまちがってる」「知りたい」「もっと知りたい」ということをひたすらに考えていたように思います
もう、考える「正しさ」もどこにもないし「そのことの意味」を知ろうとしなくても必要ならメッセージは必ずくるし、本当は意味などなくて、それよりも「どうして自分がそのことについてそう思っているのか」自分を掘り下げてみていくこと、それしかなくて。それが見えれば消えてしまうこと
そしてどうすればいいかは、私はダウジングでお伺いをします
静けさのなかに、湧き上がるものが見えなくて。自分が不感になったような、冷淡になったような感覚がありました
意識を向ける先がぼんやりとしていて、気が付くと携帯を見ていたり、聞きなれた音楽を検索したりしていて、意識が変わったのにやることが追いついてなくて
「いつものこと」「今まで」を取り込もうとする
その時気になって見た石碑の反対側に書かれていた言葉「五風十雨」
五風十雨:世の中が平穏無事であるたとえ。気候が穏やかで農作のために都合がよく、豊作の兆しとされる。五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降る意から
手放せたことがとても大きくて、それまでにも「知りたい」と焦がれ訪れていたこの土地の神社にお礼を伝えたくなって、ミソカモウデに寄った帰りでした
私は「穏やかである」という自分の状態を知らなかったんだなあと、その時思いました
「今ここ」と言われて「ここ」にではなく目の前のものも見れないで「今ここについてあれこれと考えている状態」であったこと
今までの日常を探すように、友達たちの様子が気になったりしてみるけれど、外に向ける寂しさが見えてくると自分は何を欲しがっているのかと。与えるではなく、欲しい、欲しがる意識。そうやっていったんよけて、なくして、ちゃんと見なければ自分の中にあるものを見ようともしないし、見れないような気がして。会いたいなら会えばいいし、いつでも会える。だからこそ。そこが愛の深さだとも思う。家族とも実際には離縁した訳ではないのに覚悟という形をとれたこと
そして、丁寧に生きるって、忙しくなければできるものだとどこかで思ってました
そうではなくて、意識をしないとできないこと。お掃除も、お料理も、声掛けも、動作も、毎日のほとんどのこと
そう、やっとそこに意識がむけられるようになったこと
そしてなんにも、なんにもなくなった時。それでも目の前にあるこの景色と風と太陽と、いろんなものが見えてくる
今まで「キラキラした景色とか、愛おしいほどのすべてのもの」そんな言葉がイマイチわからなくて、少し遠巻きにしてました。心が反応してシャッターを切ることはよくあっても、そんな言葉はでてこなかった。幾分ナナメにふーん、なんて聞いていたけれど。そりゃあそうで、私には目の前が見えていなかったから
高校生になった頃、桜の咲いていた校庭でクラス写真をとるのに全然知らないクラスメイト達と待機をしていた時のことをよく覚えています
「ここで人生変わるかも」「変えられるかも」そう、思ったからです
変わらなかったけれど。自分が何一つ変わってないから。外が変わってもね、自分が同じならまた同じことが繰り返されるだけだから
いま、誰にどこに感謝すればいいんだろうと思うくらいの想いです
私の世界の全てが見せてくれたから
ありがとう
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