(↑先日友達と沼島に行きました。とても充実した日、浮きそうに軽い場所でした!)
感情が落ち着いて、穏やかなような不感に感じるような日々を過ごしているうちに
焦りながら、不安になりながら、少しずつ見えてきたこと
日々は思いっきり惰性で動いてしまうこと
毎日の作業や畑の作業も「同じこと」のように見えて、違うこと
「過去に基づいて決める必要などない」その言葉を何度も何度も思い起こして
思い込みを探して、日常の中に新しいわずかな隙間を見つけていく
習慣や癖や思い込みを見ることは、やっぱり細かな細かな意識を起こしていないと難しい
そして、それを切ることは、知らないうちに切れていることはいとも簡単
これは愛なのかエゴなのか
そう、朝から寝るまで問い続けて
とにかくもう、愛しかない世界に居ようと思いました
もう、そうある暮らしをしよう
そして身体に不調を感じる時
今まではいつもいつもどこかほんのわずかでも「よくないこと」という判断があって
そんな時「監視と観察」という言葉を読ませてもらって、身体に対して本当に「適当なイラだつ監視」をしていた意識が見えました
痛みやだるさよりも「また」とか「なんで」っていうことが出てきていて
そこから身体を手放して おこるまんまを自由にさせてあげればいいんだと
外で仕事をしている以上、休むことは「できてない」意識をすぐに呼び起こします
胃のあたりに想いがこもります
そこを手放していくと 身体が自分ではないような別人のような感覚になって
もう、自由に感じたまま、そのまんまでいいんだよって思うようになりました
ただ淡々と それを過ごすこと 手放していること
意識はおせっかいで、不調が終わったのかあいまいになるとまだ休んでいた方がいいと「考えて休む」ことをはじめて
あ、そうかこれが感じることと、考えることの違いなのかと今更思いました
私の頭が「考える」ことは過去におこったことを思い起こしているだけのこと
だから、そこからいったん離れて 今どうありたいかに意識を向ける
そうやって ほんとに基礎練習のようにひとつづつ、ひとつづつ
どうありたいか
どうなりたいか
そこがどうしてもわからない時 ずっとそこで止まってしまって長く動けないでいました
意図は「魂の成長」
だったら動かないとダメだとわかっていても、全てが惰性に見えて苦しくて
でもそこで止まることのほうが怖くて
今日できること それを大切にやっていくしかなかった
「自分は何にもできてない」そう思っていることが常でした
「決めること」と「頼ること」そんなことすら区別ができていなくって
自分で「決める」ことと「全部を自分がしなければならないこと」が一緒になっていて
こうやってみたいと声に出してみる事で、とても素直に頼れるようになって
そのおかげで「決めること」「進めること」に多くの意識をむけられるようになりました
いつも追われていた時間から しっかりと決める時間へと意識を変えた時
少しずづ すこーしづつ やってみたいことや作ってみたいものがまた出てきて
まだ少ししか見えないそこを足場に
どうなりたいか
どうありたいかを
大切に感じて 毎日更新していきたいと思います
そしてお伺いをいして起ってくる新しい道 新しく見させてもらえるもの
まだ手放せていないもの そこに執着がないかどうか
まったく新しい今日を初めてもいいこと
それが初められるかどうか
期待もしないこと
言葉にすると想いとはすこし違う感じなんだけれど
そうやってひとつひとつを想いおこすたびに
どれほどの愛を見せてもらっていたかと込みあげるものを頻繁に感じるようになりました
愛には様々な形があること
何度も何度も気付きを繰り返して
やっぱり何より私は共同創造の世界を見に行きたい
神さまが私に見せようとしてくれている世界
私の世界
私にしかできない 私が消えた先にある 神さまが私が見せてくれる世界
自分をあきらめないこと 信じること
目の前にやることがあれば まだまだチャンスはある
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