随分と前になりますが、うさこさんのハイヤーセルフってとっても遠いところにいてなかなか会えなくてね「自分を放棄してしまっているからね、しかも頑固だから」って言ってたよと言われたことがありました
その頃は私はダウジングの練習をしていて、目の前におこる事、ダウジングでお伺いしたことは「はい か yes」の世界を体験し始めたころでした
お伺いをしてやらないなら、ダウジングをする意味なんてないし、またそれがわかっていても怖くて聞くことができないという怖さに溢れた日々を送っていました
それほど自分の中に抱えている怖さがあって、固定観念があって、~でなければならないがあって、とても狭い怖い守りの世界の中にいて、そこが「安全」だと思い込んでいました
自分がやりたくないと思う道にある怖さが手放せなかった
なのでそれを聞いた時、そうだよ、今は言われたとおりにやるしかないんだよ、そう怖くて毎日半泣きで、でもやるしかないって思ってました
どうしてあきらめずにやってこれたのか今では不思議ですが、神さまは本当に私をよく知っていて今では私が諦めない限りは続けられる設定をしてくれていたように思います
広く周りを見渡せば、そんなことやらない人なんて山ほどいて、それでも一人でもコマを進める人がいれば、二番手でも私はついて行くことを辞めることができなかった
「放棄」しているということも認めるほど自分を捨てられてもいなかったし、そんな、私も会話ができない私のハイヤーと話をされてることが、羨ましくて、焦りがあって、ほとんど耳を傾けられていなかったように思います。頑固だし?
でも、まったく違った。
放棄しているのは「決めること」「覚悟すること」
ダウジングをやることも、どこか誰かのせいにしていたかもしれないし、ついていけば「なんとかなるかもしれない」といった気持ちが抜けなくて、それでも自分で決めるために習得しているのに、その意味すらわからずやっていたように思います。やるもやらないもいつも自由意思であったし、なんなら「やめればいい世界」だったし
でも、少しずつみせられる衝撃のような世界から心が離せなくていて、だれも私にここまで伝えて叱って目を覚まさせてはくれなかったし、どこにも偏らない正しさというかその頃答えはその先にならみつかるかもしれないと思っていて
やると言ったことも、とりあえず言ってみて必死で吐きそうになってやってみるしかなくて
その手放しと何を放棄してしまっているのかの区別がわかってなかったなと思います
放棄していることがわかってなかったから、ダウジングをはじめるようになったスタートでもまだまだサービス期間のような設定で、畑をするような道筋に、きらりと目印があって拾いながら進んでいくヒントが落とされていました
そうして今やっとその「放棄」に気が付いて「どうなりたいか」「どうありたいか」に向き合うところへとつながっていくことができました
はい か yesの世界が辛くて自分を大切にしていないように思えて怖さにまけそうになったことも多々あったけれど、それは本当の私ではなかった
それはただ、怖さが手放せないでいただけだった
どうしてもどうしても手放せないで握っているものを抱えていただけだった
おこること全てに責任を負う事 すべては自分の起こしたことだと思えること
目の前のことをただわからずともやってきて
自分に問う事
そうやって、今までの「自分」とおもっていたものが消えていって
「神さま」だとおもっている域に自分を重ねていく
昨日のブログを書いてから少しエネルギーがでてきた気分を感じました
怖さや、寂しさが薄れているのがわかりました
寂しい気持ちにまかせて人に会い、適当にごまかさなくてよかった
根源と繋がること
わからなくて寂しくて寂しくて愛されたくて仕方なかったけれど
泣きながら手放してよかった
それでも愛されてることが胸をつきあげるように感じられる
ゆるすことはゆるしてあげられない「こと」がまたおこる過去にもどるような意識しかなくて
それはリピートがおこることでしかなくて
新たな全く違う世界に進むことが創造できてなかった
そしてさっき触れた言葉
本当の自分を取り戻したいなら、他人の言葉から自分を解き放て
愛を知りたくて、寂しさから逃れたくて
たくさん学んできたけれど
動きだす世界は私しか通らない道
誰も誰にもわかならいから自分で決めて進んでいくしかない
「私の世界」
今日も紡いでいきたいと思います
usako
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