緩む練習

少し前、夜中にお腹が痛くて目が覚めて、吐くほどの激痛で胃が痙攣を起こしたように引きあがって、キュッとなったまま違和感のまま朝がきて


どれだけ消化できないもん抱えてるねんと友達に言われるまで気が付かなくて

思考がそのままダイレクトに身体に現れてくる感覚なのかと思うと頭がスルスルと縛りを解くように緩んできました


理解したいけどわからないことを必死で考えていて、そこに緊張と自分を責める気持ちとがギュウギュウ締め付けられてきて、もうここ読んでるだけで硬くなるほど


やってこれなったことを認めることは大切

認めること

でもこの緊張と締め付けが思考を狭めて、わからない癖に自分の手の中にあるものをこれかこれかと何度も必死で見比べて、見えなくなる

1つの言葉や、こうじゃないのか、に深く入るだけで

わからない中に入っていってるだけだった


ありのままを認めること、自分を愛すること、無条件の愛を自分に向ける事、感情を手放して固定観念を手放して自分の中にある光を少しずつ見られるようになってきたのに、その裏側でこんなにも簡単に自分を責めていること、その緊張、こわばり


緩むことが、手を抜くことと区別がうまくできていなくて

恐れから覚悟して、それがないと惰性に流れていきそうで


自分がどれほどこわばっていたのかを知るだけで、身体がどんどん緩んでいきました

今の自分に理解ができなかったからおこったこと

だからそこまでの自分の中に答えはない

気付きを得るにはそこまでの自分から出て、新しい目でみて感覚をつかむこと

なのにおもいっきりギュッとその自分に潜って、だって、でも、を続けていた


誰のせいでもない

全部自分のおこしたこと

でもその中身を理解しようとするんじゃなくて

ただ責めたてるだけ


わかっていないこと

わからないこと

何も知らないこと、その謙虚さを胸に据えたまま

身体を緩める練習をして

飛び跳ねたり

ぐにゃぐにゃしたり

ふらふらしたり

今の自分を縛っているものを意識して見ていく


意識の枠がどんどん大きくなって、澄んでいく感覚


緩むことはサボる事でも手を抜くことでもない

吐くほどのこわばりで、それほど責めて、そこを信じていく

反対向いた矢印


たまたま見たテレビの画面でスポーツ選手がいかにチカラを抜いた状態でここ一番の判断や自己のパフォーマンスを引き出すかというのを見たところだった


それからしばらく緩むことを意識しながら生活して

ゆらりゆらりと揺れながら

それでも自分を締め付けようとする意識と対話する


やらないなんて言ってない

明日だってやる

今だって動いてる

緊張して必死に必死に必死にやってることが

やらないといけない意識になって

その必死さがこの思考のゆとりをとめていた


必死にやってきた、そう言ってみるけどそれが本当の本当の気持ちなのかもわからない

全然やりたくないことをやってきた訳じゃない

その底のほうに、これをやってみようっていう自分を動かすものがあったはずだから


だったら、そこで動いた方が楽になるんじゃないのかな


適当になんてやらない

ダラダラもしない

面倒だからやらない、楽をしたいからやらない、そこはやる

もうやりたくないことなんてやってない


意図するって「知っている」「認めてる」っていう状態

どうありたいか、どうなりたいかを決める

おこる問題も解決できるためにあぶりだされてきている事

だったら

そのこわばりや緊張は

反対の意識

邪魔なものでしかない

だって、できるから

そう知っているなら身体は緩んでいるはずだから


やらんなんてゆうてないもん

そうお風呂場で自分に言った時

それ、誰に言い訳してるんってなって

よくわからないまま

たくさん泣きました


ずっと長いこと緊張していたのかな私


最近髪を切って髪型も変わって

ここ数日変わったねと言われることが続きました


この緩んだ感覚こそ

私にとっては別人のような感覚です


緩むこと

サボること

手を抜くこと

面倒なことこそやってみること

休むこと

責めること

怖がること

緩めることからはじめてみること

そのあたりの区別がついてきたら

もっと自身のパフォーマンスをあげられるんじゃないかと思いました


ありがとうございました

サトルうさこ農園

愛そのもののエネルギーであるサトルエネルギーで高波動に整えたサトルうさこ農園で、宇宙と共同創造しています

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