その1 問題が浮上するタイミング
自分自身、なかなか整理のつかなかったここ最近
書きながら整理を進めていきたいと思います
去年の後半から、私は自分自身が感覚を塞ぎ、何も世界を見ていないような状態にいることに気付けたことからはじまりました
それは、大地の厳しさを素足で感じる映像がはじまりで、寒さに声を上げるその叫び、刺すような河にはいり、滝に打たれ、歩き、温泉の暖かさに緩むその「感覚」を観たとき
少しずつ、自分にもそんな「感覚」があることを思い出していました
夏には熱かったし、やけどをすれば痛むし、そんな「感覚」はあったのだけれど
もっともっと「生きる」ことに近い、もっと原始的な感覚が呼びさまされるようでした
そして、それまでに私は魂の学びに行き詰まりを感じていて、もうここでフンばらないとどうにもならない、なんとか先へ進む道を見つけたいと必死にもがいていました
できてないのかもわからない、今自分のしていることが進めているのかもわからない
そして私は今目の前にある学びを必死で紙に書き写していきました
そして気が付いたこと
「書いてあることが何にも読めてもいなかったこと」
理解すること以前に、文章すらちゃんと読めていない上に、うわっつらを勝手に解釈して都合のいいように理解しようとしていたこと
自分に楽なように
全てをシャットダウンして、感覚を落として、適当に考えて、決められたまま生きてきた
そうしないと、そうやって全てのスイッチを切らないと生きて来れなかったのかもしれないことを理解するタイミングでした
どんなにめまいがしても、頼れるところも頼れる先も知らなくて、子供を寝かしつけたあと、自分で救急病院に点滴をしてもらいに行ったり、もっともっと昔からか
どんなに痛みがあっても休ませてもらえなくて、友達の家で寝かせてもらったり
その結果救急車で運ばれてから、綺麗に治せる病気ではないからと言われるがまま打てば寝込むような注射を何度も打って
でも、それしか治療法はないと思っていたし、それでも「治らない」し「薬も長くは続けられない」
それでもなんとか過ごしてきたのは、全部から逃げて向き合うことをやめたからかもしれない
そしてそのもっと小さい頃から自分が自由にできる世界は当たり前のようには、私にはなかった
そこから
自己否定の塊のような状態で自分のエゴを見ていく作業は、責めることしかできなくて
辛くて、自分が情けなくて、最初は辛いことばっかりで
でもそれまでわからなかった事が少しずつ見えてくる
全てを周りのせいにして、自身を明け渡してきながらも、そこにいるほうが楽だったこと
自分で決めず、責任も取らず、周りのせいにしてきたこと
それが仕方のなかったことであっても、その状態の自分に気づくこと
起こる事全てを自分の責任とすること
周りを変えようとせず、自分の中に原因を見ていくこと
いかに自分が傲慢だったか
それを知ることが出来たことが、それに気が付かせてもらえたことが
どれほど幸せなことかが感じられるようになってきて
この学びにしか
ここにしか知りたいことはないと思うようになりました
でも、そこにこれたと思っていたのに
その段階ですら文章も意味もちゃんと正しく読み取ることができていなかった
それはとても根本的な問題で衝撃的にショックなことで
今まで何をやってきたのかがわからなくなりました
でもそこが「認める」ことのタイミングでした
自分はそうなんだと、認めること
そしてそこから見れたものが大きかった
それは私の「変わりたくない」という想いでもあること
自覚がなくても!
慣れ親しんだ思考で生きるのが、辛いようで、苦しいようで楽だから
変わりたいと思いながら、変わらないことを上手く選択してきたこと
わかってしまえば、やらないといけなくなる
だから認めることが、とってもとっても苦しかった
変わろうと必死でやってるつもりで、ブレーキをかけていること
そんなことはないって思考は思うけれど
自分を責めず、状態をただ見ることができれば楽だったけれどね
全てが自分の意識の表れであること
そしてその時に学んだこと
「問題が浮上するタイミングはその問題が解決するから」
潜在意識から顕在意識へとあげてくるような感覚で捉えられるようになったこと
そんな自分では気付けない問題を起きてくることから浮かび上がらせてくる
そこから自分のみるべき問題をみることができること
その時にね
「やっと苦しむために体験してるんじゃない」と思えるようになったのです
つづく
(写真は顔を出したお庭の福寿草)
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