私が何かに「ん?」と思う時には、注意をして自分の意識を見るタイミングだと思えるようになってきました
周りを否定もしないけれど、それでも自分のもつ「正しさ」があること
色んな事を学んで、選択して生きて行く訳なので、自分の選ぶ正しさがあって当然で、正しさ持たないことの意味すらわからないでいましたが、今日このことを考えていて、少しわかってきた感覚がありました
いつもいつも、「~のはず」「~じゃないんかな」って、もりもり気持ちが出てくるときは、私にはロクなことがない意識です
それでもまた懲りもせず、ひとしきり受け入れてみようと悶々と考えてみたり、いや、って自分の考えを整理して正しさを確認しようとしてみましたが、その外側を見ることに何にも意味がないことに気が付いて
もう、その時に誰が、何が「正しく」て「間違ってる」訳なんてなくて、見るところはそこじゃない!全ては「自分を見ること」だという信号がパッとついて思考のフィールドが、意識を向ける先が、矢印が、自分の内側へと戻ってきました
すぐに思ったのは「そうか、私この人のこと、めっちゃ好きなんやな」ってこと。わかって欲しいし、理解し合いたいし、できれば「そう!そうそう!」って同じ方向を見ていたい。見ていて欲しい。好かれたいんだなって。認めてもらいたいんやなって思いました
あー。そうなるとわかった。その認められたい想いを手放す
いつまでも承認欲求は出てきてしまいます
手放すって、本当に誰ともお付き合いもしなことでも、距離をおくことでもなくて、執着も承認欲求もなく素のそのままで付き合うということ。そのほうがありのままだということ。なんてすばらしい関係!
じゃあ、その感情を抜きにしてみると、何が正しくてなにが間違ってるって考えていた事すら、もう全然違うなって思えてきて(実はそこが問題ではなかったから)
そこから、もし周りの誰からも理解されなくても、自分の中に信じて持っているものって正しさなのか、何なのかって考えるようになりました
きっと、それは「正しい」のではなくてそれを選択した自分への確信と、信頼と、経験であって、もしかしたら、その選択したものも、時には違った方を選択しないといけない場面もでてきて、それでも必要であれば周りと違っても選択する覚悟ができるか、その自分との信頼関係があるかどうかだと思えてきました
これは、今の私の課題がそのテーマなこともあるのだけれど、私の魂を成長させるため、気付きをもたらすためには、ずっと正しい選択や正しい道が準備させられる訳ではないな、と思ったこと。正しいってとても狭い視点だし、どこ基準かってそんなものはないし、おかしな表現でもあるのだけれど、私が気付かなければならないことがある時、正しいとか、得だとか、一般的に見て普通とか、そんな選択は全く意味がなくて
ただただ私の大いなる気付きの為に、ことがおきてくる
それが、今までは意識の先が外にしか向けられなかったから、やっぱり間違った選択だったんじゃないのかなとか、正しいと思って選択したのに損したんじゃないかとか、この道が、学びが正しい選択をしなかったのか、とか、自分の繋がる先の感覚が間違っているから間違った選択をしてしまったんじゃないかとか、とかとかまったくもって自分を責めるか、もしくは、頑なにそう、否定はしないといいつつもお腹の中では硬く硬く硬く周りと違っても私はこうなんだという変化、柔軟、素直さ、謙虚さというには程遠い意識があるままか
正しいか正しくないか、あってるか、間違ってないか、損してないか、そんなことばっかりみてたんだなって
全然違うところをみていたなって思えるようになりました
そうなると、怯えながら右か左か戦々恐々とガクガクしながら進んでいたことも、何を期待してたのかなあと思えるようになりました
結果ではないこと。その意味がわからなくて(もう本当に意味がわからなくて選択を間違ったとしか思えてない笑)、間違えないようにと思っていたことがどれほどその怖さを現実化させるだけだったか
そのガクガクを経験したからこそ、理解ができるようになりました
ここまで整理が進んでくると、間違わないようにと選択していた意識より、はるかにはるかに広いそしてさらに細やかに内観をする意識になりました
*写真はレモネード。鞆の浦で大きな瓶に仕込まれたレモネードを見た時に、やりたいなぁと思っていたのです。私がレモンを1袋買ってきたタイミングで父がレモンの苗木を3本買ってきました。数年後には鈴なりのレモンがなって、大きなレモネードの瓶を並べることが超現実になりました!笑
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