委ねる、という意識
頭でうるさく考えないという事を初めて学ぼうとしていた時、その意味すら全然わからなくて、次にすること、今日の予定、今から何を食べようか、考えないでどうやって一日を過ごすのか、もう何をいわれているのか全く理解ができないと、その時話をしていたことを今でも覚えています
そこからダウジングを学び、自分の意識から出てくる方法ではない判断で進むことにより、想像を超えたところに向かうこと、自分の意識では到底辿り着かない判断を得ること、そこから自分の枠から出た、思いもよらない到達を達成すること
その意識が本当に幅が狭かったなと、思います。何かを決断する時であったり、中等度以上の選択をするとき、そんな生活の「一部」を委ねたことをしていたと、今では思います
自分を責めることから抜け出してから、どこか、ありきたりの表現でいうところの「準備されている世界」に自分の波を合わせようと、とても穏やかにその波を「感じる」感覚を持てるようになってきて
そうすると、一気に身体が緩んでくるのがわかりました。どうしても「緩む」ことが苦手で、手を抜いているようななんかしっくりこない感じがあったのですが、この緩みは、私が辛さや苦しさから逃げたり、問題を横に置いたまま解決をせずに得ようとしていた緩みではなく、強いしなやかさというか、すべてに進み込む強さを持ったままどこへでも行ける強さ、ああ、そう、守らなくてもいいという事、これを何度も言われてきたけれど、そこへ繋がるような強さを持った穏やかさを感じます
信じたいと思うところから、認めるところへ
それは、自分の世界、自分自身を認めるところ
でも、「個」の自分へ繋がることではなかった
寂しくて、満たされなくて、理解が追いつかなくて、「繋がっていない」と言われた時には、何に繋がるのかもわからなかったし、この静かに感じようとする意識が「繋がる」ことだとは、わからなかった
もっと素直さがあれば早く成長ができたはずだと、その素直さを持てないことが、今、緩むことで、自分の限界や制限、壁を創り出していることがわかります
自己否定があると、何かにつけて「責められている」と思う気持ちが湧いてきます。何を言われても素直に入ってこない。周りの意見や新しい事が、自分を責めるような気がして受け入れられない
何か掴んでいるものを盾にして、赦せないモノがあって、誰も踏み込ませない場所がある
そうやって拒んできたものが見ないようにしてきた世界がたくさんあること
もっともっと大きな流れ
自分が四苦八苦動くことが、逆に限界を産んでいたこと。「とんでもなく全開になる」ということが、意識する世界を、流れを、大きくしてくれる
自分が決めたことを人に頼むとは、全然違った世界
頼ると、委ねるは違う
委ねて、入ってくる流れを感じるたびに思うのは、謙虚さ。これを傲慢な意識では受け取れないなあと
必死で、四苦八苦していた部分を委ねたら、今度私から出すのは正直さ、誠実さ、礼儀、素直さ、責任感、これを書いて張っておいて、いつもそれが差し出せているか、今は恐怖や不安ではなくそこに意識を向ける
委ねることが少し見えてくると、ダウジングというツールがいかに成長を促してくれるものかがよくわかります
物事を効率よく、完璧に、ではなく、全ては「自身の気付きの為」そのための道を行くこと
*写真は先日初めて飲ませてもらった「ベトナムコーヒー」このフィルターもとってもかわいくて、コンデンスミルクに深めの珈琲で頂く珈琲です。メニューで出ているのを見たのは初めてで、こういうモノに触れさせてくれる空間は大好きです
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