7月23日、24日で富士山に行ってきました
富士山に行くのは初めてで、富士山とは東京の行き帰りの新幹線で、興奮しながらデッキに走って写真を撮るといったぐらいの距離感でした
去年の夏にハワイに行って、今年は何故かどうしても富士山に登りたくて
山岳ガイド付きのツアーだったので、装備だけちゃんと準備をしていけば、自分でルートやペースをとることもないので、その部分はお願いできるからと思っていて、絶対に寝不足にはならないようにと思って、2日前には荷物のパッキングを済ませていて、前日になって
「あ、ちょっと緊張してるな」と感じました
何に対しての緊張かな、と。その時に思って。登れないかもしれないとか、そこはあまりよくわかってないほどの感覚で。それでも、その時のそのままの言葉は「失敗したくない」っていう文字で。「失敗」とか「損得」のような感覚があって。ご来光見れなかったら絶対嫌だなあとか笑。頭痛くなって吐くとか、嫌だなあとか。この1回で全部上手く済ませたい、みたいなね
でも
きっと富士山には何かがあることの確信はあって。そう、それを想うと胸がグっとなって。もう、行ってみるべきものを見て、感じるべきものを感じるだけでいい、もう準備されてるのだから
富士山に行く前に拾い集めていたワードの流れは、神さまは「解決」をしてくれるわけではない「ヒント」をくれるっていうところ。魂の成長になる「ヒント」
問題がおこって、お願い!っていって、奇跡が起こって、訳の分からない内に全部が解決していって、流れが良くなって、それが自分の為の何になるのか
手に中にあるのは「ヒント」。それを基に、自分をなりたいところへ引き上げていく。何をどこへあげていくためのヒントなのか。でも、もうすでにこの時点で自分のステップアップは当然として起こるべきことであって。それが、もう、その感覚が先に感謝を感じてしまっていて
意図するということ。一生懸命未来をそうなるんだろうなと想像していた頃とは違って、おこる事は確かで、確信
それが何かもわからなくても、ヒントは「富士山」それを確かめに
5合目からは富士山は全く見えなくて。準備されていた夕食を軽めにとって、コロコロと驚くほど変わる天気を見ながら、ヘッドランプや雨具を準備して、小雨のスタートでした
軽いとても雰囲気も何もかもが軽いと感じる山岳ガイドさんと、さわやかサクサクイケメン添乗員さん。初心者マークのついたコースだったはずなんだけれど、びっくりするほどたくさん休憩をとるってイメージだったのだけれど。はやい!笑。てくてくてくてく、サクサクサクサク。けっこうなペースだなぁと、自分に必要な栄養ゼリーを順にこまめにとりながら、できるだけ先頭のほうに陣どらせてもらってて。でも、このツアーのグループがとっても雰囲気良くてね。楽しくて。若い子も多かったのだけれど、しりとりでもなんでも、さすが関西発ツアーと思わせるボケっぷりで。疲れたら、とにかく歌う♪♪♪それでもって、騒ぎすぎず、時間はいつも繰り上がるほど早い集合で、随分救われました
楽ではなかったけれど、頭痛も吐き気もなく、驚くほど元気に8合目の宿に到着。山小屋のたくさんある吉田ルートだったので、トイレに困ることもなくでした
私、子供のころ(まあまあ大人になってからも)は乗り物酔いが本当にひどくて。お出かけしたら、必ず酔って遊ぶどころでなくて。楽しくなくてね。なんでいつもこうなんだろうって、気持ち悪さに便乗して泣いてて。だから、もう、なんだこれ!ってくらい楽しくて。頭痛くないことが、吐き気がしないことが「すごくない?」「今日わたし、すごくない?」ってね。色々緊張するんだと思います。身体が。貧血でもあったので、巡らないし。それがね、ある程度の成果がでたようで、うれしくてたまらなくて
そして。ここの山小屋で少しの仮眠をとって、ご来光に向けて、再出発
起きてまだ動きが浅いような体感からも、ガシガシ登って。ご来光に向けて、ルートや山小屋の周辺はごった返していて。渋滞でとまるかと思いきや、意外にも混ざり混ざりながらもどんどん進んでいって。さすがに今までよりは、息があがってきて
8.5合目でみんなで一旦コース横で外れて座って休憩の形をとっている間、もう見るからにヘトヘトのお母さんが、山岳ガイドさんと頂上を目指すか山小屋に帰るかの話をされていて。私はまだ頭も痛くなくて、気分が悪いわけでもなくて、でも、足がワナワナしはじめていて。その時、山岳ガイドさんから、山小屋にもどれる最後のポイントです、と。楽しい富士山にしてほしいからとこれからのコース説明と、行程の説明がありました。なんとなくそこで「どうしようかな」という気持ちがあって。一緒に行っていた娘に聞いても「どうしようかな」と。あきらめて悩むというより、いいかな。って気持ちがあって。とっても不思議だったけれど。ツアーの行程的にご来光にあわせての登頂で、あまり時間に余裕があるわけでもなくタッチダウンだったこともあって、娘と二人、とても自然に「山小屋にもどろうか」ということになって、え、登ったほうがいいのかな、とか。不思議な感覚すぎて、ガイドさんも、あ、そうですか?って感じで。でも、いいか、って決めた途端になんだか余計に楽しくなってしまって。いつもなら、とっても悔しくて、泣いてるかもしれなくないか?って必死にその思考回路にアクセスしようとするんだけれど、思考の回路がなくなってしまってるみたいな不思議な感覚で
そこからは、娘と2人、色んな山小屋に立ち寄って、焼印集めをしながら(これは山小屋の方とお話もできたし、自分へのお土産にも最高に良かった!)たまには座り込んで星を眺めながら、8合目の山小屋に戻って、ご来光の時間までベッドを貸してもらって
ご来光というのかな、眼下にひろがる雲から登る太陽を、もうほんとに人の少ない下山の合流ルートから見ることができて。2人で、見たことのない景色の中を、ゆっくりと味わいながら、いろんな話をしながら下りてくることができました
前日に緊張した時に設定したのは「楽しい幸せな気持ちでご来光を見る」というところでした。あれ、私、登頂したいって、絶対に頂上に行くって、思ってなかったはずはなかったんだけど、そういう設定はしてなかったんだなと。お天気がよくなって、ご来光を見ることは絶対だったけれど。でも、何度も登るべきかな?とか、やめていいのかなって思ったんです
リタイアみたいなね、行けなかった、とか。断念とか。行けたんじゃないか、とか。行かないとあかんかったんじゃないか、とか。何度もそこに下山しながらも焦点をあわせようとしたんです。でも、なんっとも気持ちも動かなくて
そして、それ以上にその時が楽しすぎて、すぐにどこかにいってしまうんです
「頂上までいかなかったの?」とかね、「途中でやめたの?」とかね。悔しい感じするじゃないですか。だから、そのワード頭に浮かべるんですけどね、自分がこう居たいっていうのとはちょっと場所が違うんですよね。人から言われる言葉だから。自分の中に「悔しい」がないから。楽しすぎて
わたし、こんな景色見たことなかったから。もう、胸いっぱいやったんです
人から嫌われないように、親からダメだと思われないように。どこでも、いつでも、ちょっとでも評価を良くしておくために、いつも精一杯、できることを出来る限りやることに何の疑いも迷いもなくて
必死に出来る限りのことを精一杯やることに何の落ち度も見つけられていなかった
魂の成長は完璧にできて、立派な人になるのが目的ではなくて
私をとりもどすこと
私の感覚
人からの評価のために自分の心の受信がわからなくなるほどに必死になって
結果だけがそこにあって
それが評価されていたのかどうかも
その評価に意味があるのかどうかもわからなくて
そんな世界を持っていた事
少しずつ気付きとしては理解していたけれど
なぜか、もう、そこに自分がいなかったことが不思議な感覚がするほどに
私の心は喜びまくっていて
その時に
少し「ゆるし」を感じたんです
自分をゆるせること
全てを受け入れ、ゆるすこと
サトルエネルギーを学ぶにあたって「ゆるし」を学ぶことはとても大切な学び
自分がゆるしを「感じること」ができたこと
そのゆるみの体感と
その愛の大きさと
このことの重大さ
手を抜いてやらないでいることでもない
やる、やらないではなくて
そのおおもとのところ
自分がそもそもどうありたいのか
私がそこにどうありたいのか
富士山はね、とても大きくて
愛もとても大きくて
雄大で
綺麗で
厳しさもあって
ゆるしもあって
素晴らしいところでした
すべてに感謝を
ありがとう usako
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